No.59 すべてはオマージュにしかならない。

以前から、ずっと思っていることなのだが、一般に「芸術」と言われるような試みに対して、それ自体を作品という形で切り離し、対象化した上で、あたかも単独で存在する客体として、それが客観的に良いの悪いのと論じることは、そもそも大いなる自己矛盾なのではないだろうか。
芸術とは、誰かが目に見えない精神的な何かを、作品という表現形式に則って具現化してみせたものだが、本領は作品の先にある。

わかりづらい言い方なので、話を「音楽」だけに限定してみる。
世に音楽評論とか音楽批評とかいうものは確かに存在する。
その音楽がどういう特徴や属性を持つものか、その作品の位置づけや背景を説明したもの。ミュージシャン自身のインタビューやコメントを踏まえて、それを通して表現しようとしたもの、リスナーに伝えようとしたものは何だったかといった事実関係を解説したりもする。これらの情報は我々がその音楽の本質に迫る上でも大切な資料となるであろう。

しかし、それらの言説は音楽そのものではない。音楽を言葉で表すことができるとすれば、そもそも音楽をつくる動機もなくなってしまう。音楽は、それに関する解説や説明とは別にある。当たり前の話だ。

ところがよく考えてみると、その音楽評論や音楽批評といった言説と別個に存在する音楽とは一体何であろうか。それらの言説が自明のことのように対象としている客体としての音楽作品なるもの。
果たしてこれが存在するのか否かは、実は非常に奥深い哲学的命題とも言えるのだ。

確かにCDやレコードといった商品パッケージとしての音楽作品は客観的に存在する。
その事実は疑い入れない。
では、そのパッケージに収録された音楽そのものはどうだろうか。
CDのようなデジタル媒体であれば、デジタル信号として数量化可能な情報となる。
また、その信号により正確に再現されるのが、空気振動という物理現象としての音の波長であり、確かに存在すると言える。
しかし、プレーヤーやデッキといった再生機材により再現される音の連鎖自体に、音楽があるわけではない。音自体は何の意味もない。そこに何か特別な美や意味を感じ取って、掛け替えのない一つの「物語」を享受するのは人間自身の感受性の働きであろう。
しかし、この感受性とは解釈というプロセスを抜きにしては成り立たず、人間の言語能力と密接に関わっている。

さまざまな煩雑な工程を踏みながら、音楽を作り出すミュージシャン自身もまたそこに特別な美や意味を見いだし、自分にとっても、またリスナーやファンにとっても掛け替えのないような物語を託すわけだ。しかし、音楽に託された物語をそのままリスナーやファンが受け取り、感動するという保証はどこにもない。

何を言いたいかと言うと、要するに音楽なるものは、その作り手と、それが作った結果としての音楽作品と、そしてそれを聴き、みずからの解釈を通して作品に託された美や意味を引き出すリスナーという三者の関係が不可欠なのだ。
とりわけ、音楽の本質はリスナーの主観世界の方に属する。音楽の作り手や作品それ自体は、音楽という、現代ではレアな形而上学的なエクスペリエンスの条件にすぎない。重要なのは、AやBといった音楽作品そのものではなくて、それらを通してリスナーの精神に新たに生じる経験価値なのだ。

そうだとすれば、経験価値が生じる場としての個々のリスナーの主観世界を考えることなしに、AやBといった音楽作品だけについてあれこれと評論するのは実におかしな迷信だという気がしてくる。
何らかの音楽作品に対して不満に物足りなく感じるとしたら、その経験価値の欠如は半面は作品サイドに起因するとしても、もう半面は音楽に託された美や意味を引き出し、味わい尽くすことのできぬリスナー自身の解釈力の欠如かもしれない。

そう考えると、すべての音楽評論とは、結局のところオマージュにしかならないのではないかと思えてくるのだ。つまり、自分たちが生きている日常世界では顕在化しない、あるいは潜伏したままの、この世の超越的な美、超越的な意味というものを実感させ、確信させてくれた愛する音楽への計り知れない感謝と喜びの表明ということである。

常識から飛躍した、かような見解は2014年の今でも、已然として奇を衒った理屈に響くのであろうか。