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No.84_シン・ゴジラに想ふ

特撮 ヌミノーゼ
話題の新作である。
渡辺謙主演のハリウッド版を挟んで12年ぶりの国産ゴジラ
1984年ゴジラと同じく、期待度マックスの復活作である。
当然、高い純度の原点回帰が求められるはずだ。
最新のCGを駆使した映像プロダクションはひとまず申し分ない。
昨今の世界標準に引けを取らない堂々たる出来栄えだ。 

それより結局のところ、問題なのは1954年のオリジナル作品と較べてどうなのかという点だ。
もちろん、62年前のものと単純比較は成り立たない。 
とは言え、だ。
多くの愛好家にとってシン・ゴジラすなわち本当のゴジラと言えば、やはり最初のゴジラをおいて他にはない。以降のシリーズとは一線を画す、別格である。
今回、あえてシンを名乗る以上は、本家、オリジナルとの比較、優劣は逃れられない。

もう20年以上も前だろうか。
1990年代前半、評論家の佐藤健志氏がゴジラ戦後民主主義批判の文脈の中でシリアスに論じ、保守論壇の一部から注目を集めた。その中で氏はゴジラという戦後サブカルチャー最大のアイコンを、先の大戦で南洋に散った英霊の化身だと断じた。
確かに1954年当時の日本人が、東京の街を破壊するゴジラの姿に東京大空襲の恐怖体験を重ね合わされていたことは想像に難くない。何しろたった10年足らず前の出来事なのだ。今日のわれわれには計り知れないリアリティがあったに違いない。
ゴジラ=英霊と見なし、自分たちにとって内在化するという視点が、佐藤氏の独創なのか、それ以前にも語られていたのかは断定しかねるが、20年余りを経た今、少なくとも愛好家の間ではかなりメジャーな解釈として浸透しているように思う。

この作品の制作にあたって関係者は恐らく、そういう見方を前提にしていると思われる。
全編にわたって、必要以上にナショナリズムを意識した科白が多いことからも、そんな時代認識が窺われる。
しかし、それにしては、ゴジラの存在を自分たちの中の一部と見なすような視点が乏しいのもまた事実なのだ。
あるいは今のわれわれにしてみると、東京を破壊するゴジラは3.11の延長線上で想像できる恐怖なのかもしれない。その場合、ゴジラというアイコンが、自分たち自身の内面性とは直接リンクせず、あくまでも外的な脅威に終始するのも無理からぬところかもしれない。

それより何より、今回の作品について、1954年ゴジラとの決定的な違いは、ゴジラ退治に命を捧げる自己犠牲のドラマの有りや無しや、であろう。
今回、登場する多くは政治家、官僚であり、個人としての側面は一切割愛されて描かれない。彼らが発揮するのは職業的使命感の域を出ない。これでは当然、みずから命を賭す悲劇的英雄にはなりえない。

対して、1954年ゴジラはどうか。
主人公の一人、芹沢博士は核兵器さえ上回る、まさに破壊的な革新技術を発明した。
人類はもちろん、生物の存亡さえ脅かしかねない悪魔的なイノベーションを、個人的な情熱で成し遂げたことで、彼は密かに科学者として倫理的葛藤に苦しむ。そこには当時の核兵器開発をめぐる科学者の苦悩が反映されていたことは云うまでもない。そして、博士はそんな孤独な贖罪意識を重ね合わせながら、ゴジラを葬るために我が身を捧げるのである。
 
当時、ゴジラは英霊の化身である以上に、何と言っても核兵器の象徴だった。
あるいは、その人間の驕りを戒めるために登場したのが魔神だった。
そうであるほどに、一方的に攻撃すれば駆除できるような単純な外的脅威ではありえない。
何らか、人間側の改悛か、行動変容をもたらすドラマがなければならない。
そこには、自らの命を捧げる英雄の存在が不可欠なのである。

本作に、そうした人間ドラマはほぼ存在しない。
その理由は単に制作側の意識や視点だけの問題だとは思えない。
 
端的に言えば、聖性とでも云うべきものの不在である。
決して目に見えない。
しかし、人の世を超越しながら、一人ひとりの心の中と、森羅万象の営みを貫くもの。
誰もが共有し、畏怖すべき神秘的な全体感覚、とでも言おうか。
オットーがヌミノーゼと呼称したエートスである。

1954年ゴジラにあって、2016年ゴジラには無いもの。
そう感じられるのはもちろん、単にこれがリアルタイムな経験だからかもしれないが。